『失敗の科学』を読んで

“進んで失敗する意思がない限り、このルールを見つけ出すことはできない。(中略)
間違った仮説から抜け出す唯一の方法は、失敗をすることだ。”
『失敗の科学』第2章「人はウソを隠すのではなく信じ込む」より引用

『失敗の科学』(マシュー・サイド著、ディスカバー・トゥエンティワン)

本書は全体を通して、様々な業界で起こった「失敗の事例」を紹介しつつ、その失敗を活かせたケースと活かせなかったケースでどのような要因が影響を与えたか、そのメカニズムを明らかにし、「失敗に真正面から向き合い、そこから学ぶことこそが進化や成長を可能にする」と説いている。
ここで語られている失敗の要因は、人が持つ性質に起因する「内因」と、社会や組織など外部の状況が影響する「外因」の二つに大別されている。

“人は自分の失敗を見つけると、隠したり、はじめからなかったことにしたりする。”
『失敗の科学』第3章「「単純化の罠」から脱出せよ」より引用

まず「内因」として挙げられているのは、不都合が起こった場合にそのことを隠そうとする性質(認知的不協和)や都合の良いことしか採用しなくなる確証バイアスなどだ。

例として挙げられていたものの一つに、ある殺人事件を担当し容疑者を有罪とした検事が、何年か後にその犯人が実は冤罪だったことが証明されても「無実の人間が有罪になることはあり得ず、物理的に不可能だ」と述べているというものがある。

一見、「これは特殊な例であり、ふつうはそんなことはありえない」と思うのだが、他の例も含め読み進めていくと「(私も)そうなるかも」と思わされてしまう。今回の例のような社会的にも大きな失敗でなくとも、多かれ少なかれ「やってしまった!(なかったことにできないかな?)」という心理が(一瞬であれ)働くことは否めない。

ただ、この心理が働くことそのものが悪いというわけではなく、まずは人の性質としてそういう側面があることを認識し、その上でも、その失敗に向き合う意思を持ち、次につなげるためにできることに取り組めるかどうかが「内的要因」を打破するポイントになると言っている。

まずは、「私は隠しごとなどしようと思ったことはない」や「思い込みや偏見は私にはない」と思わないこと、常に自戒することがまず先に必要なのだろうと思う。

“実際に何が起こったのかを理解する前に、勝手な非難をするのはまったく無意味だ”
『失敗の科学』第5章「「犯人探し」バイアスとの闘い」より引用

一方の「外因」の例としては、ある病院において「規律に厳しくミスに対して懲罰志向の強いマネージャのチーム」と「規律には厳しいがミスを非難するのではなく改善を志向するマネージャのチーム」における投薬ミスの回数を比較すると、看護師から報告されたミスの数は「懲罰志向」のマネージャのチームが圧倒的に少なかったものの、実際に起こったミスの数を調査すると「改善志向」のマネージャのチームの方が実は少なかったことが分かったというものだ。

直接的に関係あろうが無かろうが誰かを非難したがる性質(テレビで流れているニュースに文句を言うなど含め)も人間がそもそも持ち合わせているものだろう。ただ、組織の状況がそれを助長することがあり、その場合、結果として失敗を何度も繰り返してしまう組織を生み出してしまう。

これは団体スポーツでも同じだろう。パスミスをした選手に「何やってんだよ!」と怒りの声が飛び交うチームより、「ナイストライ!」や「もう少し早めに!」というポジティブな声掛けの多いチームの方が上達が早いことは想像に難い。一見、個人のスキル(だけ)に起因しているように見えても、もう少し俯瞰してみると、その要因の一つが外部にある可能性があるというのも意識しておきたい点だ。

その他、本書の中では「データの反証の重要性(一側面だけを鵜吞みにしない)」や「小さな改善の重要性(複雑な問題は小さく分解して一つ一つ解決する)」といった興味深い点にも触れられているので、ぜひ一読をお勧めしたい。ちなみにこの2点については、以前の記事「データの正しさ?」と「継続可能な小さな習慣の積み上げ」で触れた内容に近いものを感じたので、併せて読んでみていただけると参考になるかもしれない。

失敗とは?

本題からは逸れるが、この本を読み進める中で、なんとなくモヤモヤした気持ちが晴れない部分があった。

それは何かな?と考えてみると、私の中で「失敗」という言葉が持つ「やってはならないこと」というイメージが強く、「失敗」という言葉が出てくるたびに無意識に頭の中で「この本の中では失敗は良いこと」とイメージ変換しなくてはならなかったからだと気づいた。

これはそれこそ私の無意識バイアスなのかもしれないが、一定数の賛同をいただけそうな気もしなくもない(「失敗」という言葉の強さで、この本の内容が少し伝わりにくくなっている気がするのだ)。

では「何と訳せば良いのか?」と言われると頭が痛く、もちろん「Failure」に該当するのは「失敗」で正しいのだと思うのだが、すべてとは言わないが文脈に合わせて「判断ミス」とか「エラー」とかに置き換えることができるのであれば良いのかもしれないと思ったりしている。

こんな余談はともかくとして、重要なのは「誠実に自分の失敗を認める姿勢と、その失敗から学ぼうとする意志」ということを頭に刻み込んでおきたい。
では、また。
(文:金尾卓文)

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